挿絵・文:来栖ぴよさん!Special Thanks!
表紙絵:ピンクのでめ金



ネメシスを追う者





 その気がなくて嫌がっているのなら普通だが、その気があるのに嫌がっているように見えるのは、彼女の長所だと思う。何をされるかわかっているくせに戸惑いの表情で見上げて疑問符を浮かべているように見せるのだ。性的なこととは一切関係を持たずに生きてきた聖女のようで、こんな時ですら未だに童女のようで、実際に処女であることは疑いないのだが、それでも誘ったのは彼女だ。
 『誘った』という言い方は少々不適切かもしれない。『申し出た』とでも言うべきか。それほど彼女の言い方と態度は固かったが、結局のところ言い回しがどうであれ提示した内容に差異はない。
 ベッドに沈んだ細身の身体に覆いかぶさって軽く首筋を舐め上げると、リザがびくりと震えてロイの肩に手を添えた。その手は引き寄せようとしているわけではないらしいが、押しのけて抵抗しようとしているとも思えない。本当にただ当てられただけの繊細で壊れそうな手をとって、ロイは白い指に自らの指を絡めた。
 「マ…スタングさん…? なに…をっ」
 何を、と尋かれて懇切丁寧に口で説明するよりは身体に教えたほうが早い。リザが言葉を紡いでいる途中にそれを無理やり塞いだ。リザは硬直している。緊張しているのか。
 「口、開けて」
 「…え?」
 疑問を上げる声と共に半開きになった薄桃色の唇に再び口づけを落とす。掬い取った舌は今までキスをしたどの女性のものよりも小さくて何だかおかしな気分になった。だが、悪い気はしない。リザの舌を蹂躙するたびに握り締めた指がびくびくと痙攣する。彼女は舌にこれほどの感覚が集中しているなんて考えたこともなかったのだろう。それは異性によって初めて思い知らされる。
 苦しかったのか喉で声を出したリザから名残惜しく離れた。薄桃色だった唇は赤く濡れそぼり、薄く開いたそれから湿った吐息が漏れていた。彼女が望むか望まないかに関わらず十分に扇情的な光景である。ベージュのシーツの上で漆黒の喪服に包まれたビスクの肌が薄闇でくっきりと浮かび上がるように映えている。まるで曝されるのを待っているかのように見えた。既に上着は着ていない。彼女が自分で脱いだからだ。
 ワンピースを脱がそうと背に手を入れると、リザは進んでひじを突いて起き上がり自分でファスナーを下ろそうとした。嫌がる彼女を強引に征服する様を想像して愉しんだ事がないわけではないが、やはり誰よりも大事な少女なのだ。合意の上であることが最も望ましい。いや、震えながらも従順にファスナーを下ろそうとする彼女を黙って視姦して愉しんでいるのだから、趣味が悪いことには変わりないか。
 緊張した手は先端をうまく掴む事ができず、焦ってますます不器用な動きを見せている。これ以上放っておくのも酷だ。それに自分はそう気の長いほうではない。
 薄い腰に両手をあてて引き寄せ、座した自分の脚に閉じ込める。こつんと額をリザの額にあわせて微笑むと、安心したようにリザの手の力が抜けた。その手を解いてロイの手が代わりにファスナーを最後まで下ろした。フックを外し、合わせを掴んで肩まで持ってくるとリザが小さく声を上げた。
 「あ…」
 「怖気づいたか?」
 いえ、とリザは首を振って、消え入るような声でごめんなさいと謝った。
 「イイエ、気にしてないよ」
 再び仰向けにベッドに押し付けると、不安そうな瞳が見上げる。
 「あの…マスタングさ…っ」
 普段は必要なこと以外殆ど喋らないくせにこんな時だけ妙に口を開きたがる。塞いで欲しいのか? 期待に応え、口を塞いだまま肩まで持ってきたワンピースと下着のストラップを同時に下ろして、露になった胸に指を這わせる。美味いものもろくに食べられないような家庭環境で育ったとは思えないほど、しっとりと柔らかく手に吸い付いてくるそれは下着のせいではなく本当にふくよかだった。筋肉も脂肪もついていないまだ子供のような身体つきをしているくせに、男を魅惑する準備だけは整っているようで、例に漏れず虜にされながらも、何か少々癪に障るものを感じた。胸の飾りに人差し指をあてて揉みしだくとしこりが残っていて、この大きさでまだ未成熟であることがわかる。年齢的にも当然のことではあるが、清純な彼女の性質と身体的特徴が間逆なのはリザにとって悲劇かもしれない。
 露になった膨らみの感触に夢中になっていたせいで気がつかなかったが、いつの間にか首を振って唇をかわそうとする彼女の頭を捕らえて口内を犯し、明らかに抵抗の意を示してロイの肩を押し付ける両手を無視して、柔らかな感触と硬くなっていく突起の感触に酔いしれていた。意外にもこれでは当初の望みどおり、合意なし状態だ。
 一旦止めてリザの顔の横に両手をつき、身体を上げた。遠慮なく体重をかけていたが、やはり壊れそうに細い。苦しかったのだろうか。初めて桃色の突起が視界に入って、ふと目を逸らした。その先には泣きそうなリザの顔があった。
 「やめてください…違…うんです…」
 「違う? 何が?」
 「私…は、そんなつもりじゃ…」
 リザが顔を背けると父親が亡くなって泣き腫らしたばかりの目から更に涙が奪われて、潤んでいた瞳から終に一粒涙が零れた。ロイの胸板に押し付けられていた手がそろそろと外され、露になった胸を隠すように自分自身を抱きしめる。
 そんなつもりではなかった? 自分で脱いでおいて。彼女が何を言っているのか理解できない。
 「それは、今更というものだよリザ」
 自分のどこにこれほどの支配欲が隠れていたのだろうかと思う。人よりは好色だという自覚はあったが、これほどの執着を見せたことなどただの一度もなかったはずだ。絶望に見開かれた目と言葉を紡げずに微かに動く唇が、今までのどの女の所作よりもこれほどまでにそそるなど、思いもしなかった。
 「私…は、…ただ…」
 「やめて欲しい?」
 マリオネットのようにぎこちなく、リザの首が縦に動いた。
 「嫌だと言ったら?」
 答える代わりに、リザの目からまた一粒涙が零れた。ブラウンの瞳はロイから逸らされ、諦めたようにただ暗渠だけを映していた。君が嫌ならやめる、そう言うつもりだったのだ。しかしどうしてもその言葉が口から出ない。反対にその唇は先ほど弄っていた桃色の蕾を求めていた。突いていた手はリザの脚を折り曲げ、膝下のスカートの丈から滑らかにストッキングを辿って腰まで手繰り上げる。
 「や…」
 爪を引っ掛けた箇所から伝染していく音を間近で聴きながら、破れたストッキングの穴から覗く雪のように白い内腿に舌を這わせた。
 「い…や…嫌…や…だっ…」
 リザの口から零れる甲高い小さな声に快感は一欠けらも含まれておらず、そこにはただ恥ずかしい体勢でストッキング越しに舐められる嫌悪感しかない。
 「悪いが、…いい思い出にはしてやれそうもない」
 真っ白だった穴はロイが唇を離すときにはもう鬱血して赤く染まっていた。
 「…ぁ…」
 下着ごとストッキングを引き下ろされ、リザは毛皮を刈られた子羊のように頼りなく震えた。
 何度も、何度もやめようと思ったのだ。彼女が嫌と言う度に、痛いと言う度に、哀れなほどがくがくと震える膝が目に入る度に、それでも苦痛からくの字型に曲がってシーツを歪ませるその細く白い指ですら、眩暈を起こすほど美しいフォルムをしていて、小さくあがる悲鳴だけでぞくぞくと快感が背筋を走り、リザを組み敷いているという事実を認識するだけでも果ててしまうほどで、良心と慙愧の念を凌駕し続けるだけの衝動を抑えることができなかった。
 彼女が感じる痛みには到底及ばないとわかっているが、ロイの胸もずっと締め付けられるように痛んでいた。
 ここまで、彼女を傷つけてまで、する必要があったのか。
 彼女が嫌と言った時点でやめるべきではなかったのか。
 こんな年下の少女相手に。
 保身を侵してまで。
 本気になるわけがないのに。
 元はと言えば。
 そう、そうだ。
 「君が、…誘うから、だ」
 ぽつりとつぶやいた言葉は闇に飲み込まれて消えたように思えた。だるいのか痛いのかリザがぐったりと動かないせいだ。傷ついたリザに責任を転嫁する自分があまりに勝手で腹が立つ。嫌われただろうなと思うと胸の痛みがいっそうひどくなった。
 当たり前だ。一生許してはもらえないかもしれない。ああ、こんなはずではなかったのだ。父親代わりに守っていこうと心に決めたのに、どこで道を間違えたのだろうと考えれば、やはり、あの時だ。
 葬式の後始末で泊り込むことになり、夜半まで作業をしているところを寝室に呼ばれた。まだ喪服のままでいたリザに驚きを隠せなかったが、彼女は電気もつけずに言った。
 『やはり、貴方に差し上げようと思うのです』
 ぱさりと脱いだ上着が床に落ちる。
 それはロイの理性が砕け散る音と同時だったのかもしれない。

 そして、我に返った今、ただ胸の痛みだけが残った。
 誘ったリザが悪いと言って片付けるのは簡単だ。
 でも、それでは駄目なのだ。
 「リザ…」
 睫毛が濃く陰影を落とした伏せ目がちな瞳がだるそうにこちらに向けられた。
 「リザ」
 謝らなければ。
 躊躇していると、吸い込まれるようにすっと目蓋が閉じられた。
 「リザ…!」
 「…マスタング…さん」
 掠れた声がゆっくりとこぼれ出る。
 「どうして…?」
 ずきんとこれ以上ないほどに胸が痛んだ。
 だがその瞬間、ふ、と。
 幻覚だろうかと思ったが。
 確かに、ふと目を閉じたままのリザの頬が緩んだ。
 「どうしてここまでして気付かないんですか…貴方は…」
 呆れた様に、穏やかに流れるその声に、ロイが予測していたような怒りと軽蔑は含まれていなかった。
 顔を顰めながらリザが緩慢な動作で身体を起こした。痛むのだろう。どろどろに汚れた身体をゆっくりと反転させる。
 「もう…私は、これを差し上げると言ったのですよ…?」
 振り返った顔は明らかに苦痛と疲労を滲ませていたが、それでもロイが見たことがないほど、リザは優しく微笑んでいた。
 「あ…」
 眼前に晒されたものと、とんでもない勘違いと、優しすぎるリザに対する驚きで、ロイはしばらく指一本動かすことができなかった。
 「ああ…」
 「…わかりましたか?」
 美しい。そして、なんて愛しいのだろう。
 背中に彫られた錬成陣についてではなく、リザの存在自体について、単純にそう思った。
 「じゃあ…やっぱり…」
 「え?」
 「ダ…ダメ、…だったのか…?」
 滝のように汗を流すロイをちらりと横目で見て、リザは拗ねたように頬を膨らませた横顔を枕にうずめて、はい、と言った。
 「…すまん」
 「はい」
 「ごめん…」
 「そうですね」
 「ごめんなさい…」
 「ええ」
 誘われたからなんて自分の言い訳に過ぎなかった。自分の欲望で一生恨まれても仕方がないようなことをした。何度謝っても赦されるようなものではない。でもいつの間にか返事をするリザの口元が緩んでいることを、ロイは気付いていた。
 背を向けるリザを後ろから抱きしめて、首筋に顔をうずめた。
 「…マスタングさん…」
 「ちゃんと言ってくれれば良かったのに」
 「何度も、言おうとしました…」
 「キスしても抵抗しなかったじゃないか」
 「だって…! 背中を見るだけなのに、どうして…するのかと思って…びっくりして…」
 思い返せば確かにリザは戸惑っていた。
 「そうか、すまない」
 今度はちゃんと断って、ロイは悪びれる様子もなくリザの下肢にぬめる指を滑らせた。
 「っ…」
 「もう一回」
 今度は許してもらえないかもしれない、とは思っていなかった。ロイはリザが無条件に何もかも許していることを学んでしまったのだ。
 抗議しようと開かれたリザの唇を塞いでも、もう胸は痛まなかった。

 その日からしばらく、ロイは自宅にこもって写し取った錬成陣の研究に没頭していた。















































 ロイが訪れないと、リザの家に訪問者はいなくなる。父が亡くなった今、リザは一人きりで生活を送っていた。研究資料はリザが持っていても仕方がないため、すべてロイに譲り渡した。もはや彼がこの家に来る理由も、彼女の顔を見るくらいしかないが、背中を見せた日から大分経ってまだ彼が訪れた事はない。
 まだ解読を終えていないのかしら。
 彼は一度集中すると周りが見えなくなるタイプだ。きっと今も寝食を忘れて書物と睨めっこしている事だろう。
 鍵をかけなくても誰も近づかないような屋敷の玄関に鍵をかけ、リザは買出しのため歩いて街へと向かった。いつもの事とはいえ道のりは長く、郊外には刺すように冷たい風が吹く。だがじきに春が来る。仕事を見つけて少しお金がたまったらロイに手伝ってもらってあの家を修理しよう。それとも引っ越したほうがいいだろうか。いい思い出とはいえなくともリザが育ってきた家だ。できればこのまま住んでいたいと思うが、リザが一人で住むには大きすぎるし、維持費もかかる。一人で住むならば、の話だが。緩みかけた頬を慌ててきゅっと引き締めた。
 手放しで喜ぶのは少し気が引けたのだ。リザはロイにとって最も必要なものを、自分自身のために利用した。
 卑怯だわ。
 客観的に見てこれは卑怯な行為だと思う。リザは自分がそんなことをする人間だとはまったく思っていなかった。それが、少し悲しかった。
 あの夜、ロイがああするように仕向けたのはリザなのだ。誘ったのはリザなのだ。確認するたびに痛む胸を抱えて、リザは歩を進める。別に抱かれなくてもかまわなかった。おそらく彼はリザの背にこれがあると知っただけでも、彼女を手放すわけにはいかなくなる。なにしろ暗号化されているとはいえ彼が使う錬金術の真髄はリザの背にあるのだから、錬金術師として人手に渡すわけにはいかない。ロイはリザの背を彼以外の人間に見せるわけにはいかなくなったのだ。必然、リザの女性としての幸せもロイ以外には求められなくなったことに気付いただろう。例え彼が欲しているのが錬金術のみだったとしても、リザなんて欲していなかったとしても、リザはロイだけのものとなった。
 ロイの意思とは関係なく無理やりに。
 ロイが自分のものに優しいことをわかっていて、ロイが自分を見捨てないことをわかっていて、リザがこの道を選んだ。基本を終えた彼のことだから、今から他の種類の錬金術をつかう術師のところに弟子入りしても良かったのだ。そうすれば彼はリザに囚われることなんてなかった。ごめんなさいと謝ったところで許されるものではないだろう。ロイでなければ、責任を取れというのかと怒っても仕方がない状況だ。見捨てられても仕方のない状況だ。でもロイはやっぱりそのどちらの道も選ばなかった。
 ロイが自分と一緒にいる理由が義務と同情なのだとしても、離れたくなかった。
 ―――そうでなければこんなものを背中に彫る決意などしない。
 いいのか、と父は一度だけ確認した。
 リザも、はい、と一度だけ返事をした。
 こうして、リザの意思で、ロイをリザに呪縛する仕掛けが整えられたのだ。
 利用できるものは何でも利用するなんて、恋心とは浅ましいものだ。
 リザがロイ以外の人間に肌を見せられなくなった以上、ロイはリザを他の男に触れさせないようにする以外に選択肢がなくなる。具体的に言えば、ロイはリザと婚約せざるを得ないだろう。

 雑踏の中、リザは茶色い紙袋を抱えて家路を急いでいた。物思いに耽っているうちにすっかりと遅くなってしまったようだ。日が沈んでから人気のない郊外を歩くのは危険である。華やかに立ち並ぶショーウィンドウを横目で見ながら早足で歩いていると、写っている人影に目が止まった。ロイだ。研究を一休みして買い物にでも来たのだろうか。幸い今買ったばかりの材料で二人分の夕食を作ることくらいはできそうだ。ウィンドウの反対側を向いて、呼び止めようと口を開きかけたその時。
 ロイが手を振った。
 その先にいた女性が小走りで駆け寄って、ロイの頬に軽くキスをする。微笑むロイの顔はリザには見せたことがないほど優しげで、その女性と腕を組んで角を曲がって行った。

 ロイが久々にリザの家を訪れたのはその翌日のことであった。
 「随分かかったがやっと昨日解読を終えてね、その報告に来たんだ。しかし師匠は本当に人が悪い。その解読方法ってのが…リザ? …リザ!」
 「あ…はい」
 気を抜くと失ってしまいそうな意識を保って、リザは顔を上げた。大丈夫、大丈夫だ。
 「具合でも悪いのか?」
 「いえ…」
 背中のこれがある限り、大丈夫なはずだ。きっとロイは捨てたりはしない。彼は罪悪感から私を捨てることはない。あの人がロイの恋人だったとしても、結び付けているものの重さでリザが他の女に負けることはないはずだ。
 いや。
 リザが本当にこの人を好きならば、自分がどうするべきかくらいわかっている。もはやリザは邪魔なだけなのに、まだ縋り付いていたくて、吐き気がした。
 俯いていると、ロイがリザの額に手のひらを当てて首をかしげた。
 「熱くはないな。むしろ冷たい」
 「別に、どこも悪くは…」
 「だが疲れているようだな、ああ、私なら今日は早々にお暇するよ」
 「いえ…! その…」
 「そう気を使うな、いろいろと話したいこともあったが今度の機会にしよう。君も今日は早く休みなさい。また来るよ」
 『また』、その言葉にリザは安堵のため息をついた。そう、このままリザを放っておけば暗号が漏洩するかもしれないのだから、これがある限りそばにいられる。それは砕け散りそうなリザの心を支えている唯一の支柱だった。
 「っとその前に、これは早いほうがいいか」
 ロイがひらりと一枚の紙を渡した。
 「…これは?」
 「紹介書だよ、病院の。イーストシティじゃそこが一番だ。幸いここからそう遠くもないしな、君の背中のそれを消してもらうといい」
 え?
 しろく
 しろく、頭の中の何かがはじけて消えた。
 「やっぱり…女の子の背中にそんなものがあると…その、色々と困るだろ? 君も。手術は必要になるがそこの先生ならきれいに消してくれると思う」
 消す。
 ロイは、これを消したい。
 それは当たり前のことだ。
 当たり前の。
 「リザ? ああ、費用のことなら心配しなくても…」
 ロイの声が頭に入ってこない。 ロイにとってはこれが書物に記してあろうが、リザの背中に記してあろうが、関係ないことだったのだ。
 私は、貴方のなんですか?
 ―――なんでもなかったのだ。
 邪魔とすら言われず、なかったことにされるほどの…。

 失意のうちにロイを見送って、リザはたった一人で暖炉を見つめながら応接間に立ち尽くしていた。

 もし、これが書物に記してあったら、ロイはどうしただろう。
 暗号が解けた後は、きっと燃やしてしまうのだろう。
 「そうね…きっと」
 炙れるくらい手のひらを炎に近づけて、リザはつぶやいた。
 ロイの気持ちも考えず身勝手に縛りつけようとしたから、罰が当たったのだ。

 渡された紹介書を丸めて焔を移す。

 こんなに、こんなに惨めな状況でさえ、まだロイのそばにいられる方法を必死になって考えている自分はなんて愚かなのだろう。錬成陣なんてものに頼らず、自分の力で、ロイを束縛することなく、ロイのそばにいたい。最初からそうすればよかった。あの錬成陣以外に、利用価値があれば、あの人はそばにおいてくれるだろうか。

 響き渡る悲鳴を轟音が奪っていく。

 いつの日か、自分のエゴを押し付けずに彼のそばにいられる日が来たら、彼を守れるくらいに強くなったら、もう一度会いに行こうと思った。



 小さな箱を懐に忍ばせて、ロイは軽く歌を口ずさみながら車を走らせていた。リザはどんな顔をするだろうか。断るだろうか。いや、彼女だってあれを背中に彫られた時からこうなることくらい覚悟していただろう。嫌だと言われても、聞き入れる気はない。といってもリザはそんなこと言わないだろうな。あの夜の微笑がそれを証明していた。
 あの時、誘ったリザが悪いと言って片付けるのは簡単だった。
 でも、それでは駄目なのだ。なぜなら、それは他の誰でもなくリザだから。一度こうなった以上もうこの衝動は抑えられない。このままではきっと何度でも、彼女がどんなに嫌がっていても抱きたくなる。彼女を不幸にはしたくないが、自分のこれが抑えられないこともわかっていた。結局は彼女に赦しを請うて慣れてもらうしかないのだ。これも随分と自分勝手な結論だ。
 ロイは心中で自嘲の笑みをもらした。
 もし、リザがあの家の子供ではなかったら、自分ではない他の男と普通の恋愛をして普通に結婚していたのかもしれない。しかし不幸なことに彼女は背負ってしまったのだ。切ることのできないロイとの絆を。
 結婚するには早すぎる歳かな…だがしてもしなくてもどうせ生活は変わらないのだし、遅かれ早かれ籍は入れるのだから、なるべく早いほうがいい。一昨日で女性関係も全て清算したし、準備も整った。リザの背中が綺麗に治ったら、背中の開いたドレスを着せて上官に思い切り見せびらかしてやろう。彼女は社交界に出てもさぞ映えるだろうな。リザがその責務から、自分から逃げられないとわかっていても、鎖は幾重にも巻いておくに越したことはない。
 昨夜訪れたときも、触れたくて触れたくてたまらなかった。リザがあれほど蒼い顔をしていなければ玄関を開けた瞬間に押し倒していたかもしれない。さすがに、具合が悪そうなリザを前にして自粛したが、おそらく今日は我慢できそうにない。彼女が隣にいないと息が詰まりそうだ。
 はやる気持ちで車を飛ばして、見えてきたものはいつもの崩れかけた洋館ではなかった。
 「何だ…煙突の煙にしては広範囲…過ぎるな」
 ロイの脳裏を黒い予感がよぎったが、それを無視してスピードをあげ、館に着いた。いや、館ではない。館があるべき場所にあったのは、変わり果てた残骸であった。
 悪夢でも見ているような気分で、ロイはそれに近づいた。
 「危ないですよ、まだ燻っていますから」
 ロープを越えようとしたロイを憲兵が慌てて止め、ロイの軍服を見て敬礼した。
 「ここに…住んでいた少女は?」
 「は…、こちらは空き家のはずですが…」
 「ばかな! 昨日までリザが住んでいたんだ! 彼女はどこだ!」
 ロイの形相に圧された憲兵が、確認してきますと言い残して走り去った。
 まさかあの中に巻き込まれてはいないだろう、そう思いたい。
 「リザ! リザ!? …クソッ…何故…何でだリザ!」
 その屋敷は、持ち主であった焔の錬金術師の後を追うように、原型を留めなくなるまで無残に燃え尽きていた。リザの行方が知れぬまま、追ってその火事が放火であるという調査書が提出された。また、燃え跡から焼死体が発見されることはなかった。
 ほっとすると共に、じわりとロイの心が黒く染まった。
 リザは、自分から逃げたのか。
 引き出しから出した小箱をじっと見つめる。
 全ては、自分の勘違いだったのだろうか。あの微笑みも、ただの同情にすぎなかったのだろうか。いや、冷静に考えればわかることだ。彼女は別にロイのことを愛していたわけではない。伝承しなければならないという義務。その時に、ひどく犯されたのだから、自分の顔など見たくもなかったのかもしれない。それでも、彼女が責任を放り出して逃げるとは思わなかった。背中のあれがある限り、彼女はまたここに戻ってくるような、そんな気がしていた。
 「マスタング少尉、手紙が」
 「…ん、ああ」
 小箱を引き出しに戻して、部下からそれを受け取った。差出人は、『リザ・ホークアイ』。勤めて冷静にロイは部下を下がらせた。
 内容はきわめて簡潔なものだった。

 『背中の錬成陣は解読できないよう処理しておきましたのでどうぞご安心ください』

 消したのか。
 簡潔にもほどがある。とりあえずもう彼女と自分を繋ぐものは何も無くなったという事と、彼女が無事で生きているということだけはわかった。もうひとつ、リザは私と添い遂げる気など最初から無かったようだ。残ったのは彼女を犯したという罪だけ。これは彼女の気持ちをないがしろにした罰だろうか。ロイの心から恋愛感情と言う名の執着心と支配欲は砕けて散った。
 成程。因果応報ということか。

 電話が鳴った。ロイはそれを機械的にとる。
 「もしもし…ああ、君か。うん…そうだな」
 傷は小さい。
 「すまない、あの時は私もどうかしてたんだ」
 しかし確実にそれは心臓を貫いていた。
 「今晩、会えないか?」
 錬成陣を消して新しい人生を歩むであろうリザの旅立ちを祝福してやる気など皆無だ。自分が幸せになれないことがわかったのに、彼女が他の男と幸せになるなど許せるものか。おそらくもう、心から誰かを愛することなどできないだろうと、ロイは確信していた。
 もう会うことも無いだろう。
 受話器を置いて、デスクに戻ったロイは真っ先に小箱を握りつぶしてゴミ箱に叩きつけた。



























「ホークアイ少尉…」
 「何か」
 「これはドッグフードというものではないかね?」
 「よくおわかりになりましたね」
 「…怒っ…て…る?」
 「いいえ」
 ロイはお茶請けに出された珍妙な物体を一つ摘んで、椅子の横に座って期待に目を輝かせ千切れそうな勢いでしっぽを振っている茶色い子犬の口に放り込んでやった。ところでこれはどこの犬だろう。
 「まぁ聞きたまえ、これには理由があってだな」
 「理由を聞くのは一時間後にします」
 「…今聞いて欲しいんだけど」
 イースト・シティで最も有能な副官は絵画の女神のように整った顔をこちらに向けた。表情まで彫像のように動かないのはどうかと思う。
 「無駄なことは何一つしない貴方のことですからそれはそれは正当な理由が裏には隠されていて私が聞けば納得せざるを得ないのでしょうが、そうやって裏工作する度に通常業務に支障が出るのです。せめて一時間くらいは怒らせて下さい」
 「や…やだ」
 ぶんぶんと首を振って怖いと言うと、明らかに軽蔑を含んだ目で見下ろされた。上官いびりにこの身体が一時間耐えられるかどうかは不明である。それにしても再会してから年々上官の扱いが不当になっているような気がするのはどうしてだろう。
 「まぁ機嫌を直したまえよ、ちゃんと時間内に終わらせて夕食ぐらいご馳走するから」
 「また適当なことを。今日はサルマ嬢の日でしょう」
 「君、詳しいね…」
 「部下ですから」
 信用が無いだけじゃないか? いくらなんでもあれが研究手帳の暗号ということはいい加減彼女も気付いているだろうに暗記しているのは断る口実のためなのではないかと思ってしまう。彼女が今の地位を危うくしたくないのは知っているし、そのためにお堅いのはわかっているが夕食を付き合うくらいいいではないか。よりによってどうして自分の副官になったのだろう。いっそ他の佐官の補佐をしていればよかったのに。いや、やはりそれはダメだ。リザと再会してひとつわかったことがある。ロイの女性に対する執着心というのは彼女にしか働かない。そもそも卒業した彼女を無理やり副官にしたのは自分だったか?
 「友人から預かった犬の世話もしなければなりませんし」
 これは彼女の友人のものだったのか。素性がわかって邪魔者をじろりと睨んだが、相手はきょとんとして座っている。
 「それならうちに来ればいい。君の予定が空いているなら向こうを断ろう
 「優先順位を間違えているのでは? 地獄に落ちますよ」
 「そうか? 恋人の約束を断って部下をねぎらうことくらいあるだろう、普通に」
 リザはぐっと詰まって、むすっとした表情で唇をとんがらせた。自分の発言と矛盾するようだが、部下にしておくのはもったいないと思うのはこういう時だ。思わず触れそうになって微かに動いた右手を誤魔化す為に肩章を直した。事あるごとに誘うロイをリザはどう思っているのだろう。態度を見ると煩わしいとしか感じていないようだが、当然か、彼女にとっては上官が偶然知人だったというだけの話だ。
 背中にあったアレもきっと跡形も無く消えているのだろう。
 そう思うとどうしようもなく寂しいが。
 「…夕食、だけなら」
 ふ、と笑うとリザの眉間にいっそう深くしわが刻まれた。部下をねぎらうのは普通だがリザは女だ。それを理由に断っても良かったのに、そうしなかったのは彼女が男の部下と同等に扱って欲しいと思っているため。
 「リザ」
 久々に名前で呼ばれて、驚いたようにリザが顔を上げた。伸びかけた金色の髪がさらさらと揺れる。ずっと少年のようなショートカットを貫き通してきたリザがどういう心境の変化か最近ずっと髪を切っていない。あどけなさを残す顔を覆っている金色の髪が肩に届くほど伸びていて、ロイはそれが好きだった。女性らしい外見にコンプレックスがあったはずだが、好きな男でもできたのだろうか。自分の発想に憂鬱になって思わず用意していた台詞とは違う台詞を口に出した。
 「…背中は、きれいに治ったのか?」
 それは聞きたくない答えを突きつけられるとわかっている質問で、あえて今まで触れなかったのに、こんな日常で唐突に尋ねてしまうなんて、とんだ失態だ。少しでも可能性が残っているならと考えれば尋ねてみたくもあったが、おそらく答えは予想通りだろう。
 「ええ」
 リザの答えはいつかと同じように簡潔なものだった。
 「…そう、か」
 現実は簡単にロイの淡い期待を裏切った。
 事実は変えることができなくても、これから起こる出来事は行動次第でどうとでも変えられるのだ。リザの横顔を盗み見ると、相変わらず難しい顔をしてロイの書類をチェックしている。学校の課題と睨めっこしていたあの頃のあの顔と変わらないなと、思った。
 伸びかけた髪が女性らしさに目覚めた兆候だとしても、その背にはもうロイが彼女を繋ぎ止めておけるような傷がついていないとしても、他の男にくれてやることだけはロイの選択肢に無かった。
 過去の過ちを反省して彼女と私は最も適切な関係に落ち着いた?
 冗談じゃない。
 数年の空白と数年の潔癖な関係を挟んで、今なおロイの衝動はあの頃と何一つ変わっていない。

 午前二時、リザは時計のなる音を聴きながら酩酊状態のまま眠ることもできずベッドに横たわっていた。懐かしい匂いに自然と狂おしいほどの愛が思い出される。思い出されるというのは正確ではない。なぜならそれは色あせずに今でも持ち続けているものだからだ。自分の幸せを望んでいた昔と違うのは、リザが本当にただ一人の人間の幸せを望んでいるということだけで、昔と違う立場からも彼のことを考えなければならなくなった分、その感情は重くなるばかりだ。おそらく、彼が亡くなれば自分も後を追うだろうと冷静に考えられるほど、それは年を追うごとにリザのすべてを占めていった。突然これほどまでにその思いが喚起されたのはこの芳香のせいだろう。リザが大好きなその感覚は、今は警鐘として使われていた。これを感じるほどの距離は近すぎるのだ。近くにいるのだろうか、離れなくては。リザは無意識にそう思った。しかし、身体がだるい。許されるものならここでこのままこうしていたいという誘惑に打ち勝つことはできない。考えてみればこの状況はおかしいではないか。リザがこうして自分の家のベッドで寝ているというのに、どうして、ロイのにおいがするのだ。有り得ない、おかしな夢でも見ているのだろう。
 やだ、本当に中佐の姿まで見えてきたわ。
 「…リザ」
 声まで本物のようで、想像とは思えない、想像を超えている身体の芯に響くような声がリザの耳を打った。これが夢ではなかったら大問題だ。浮遊感に捕らわれてこれは夢だと安心する。
 「リザ」
 覆いかぶさるように耳元で名前を呼ぶロイの首に無意識に腕を回して抱きしめる。こんな恋人のようなことをされたのはあの時以来だ。ロイはリザに抱きしめられたことに驚いたのか、じっとリザの目を見つめた。
 「君だけを、愛しているよ…リザ」
 服の下を這う両手に身を任せながら快感の中で不快感を覚えた。自分はもうこんなことを望んでいないのに、厭な夢だ。現実ではないとわりきって羞恥心と抵抗を捨てても自己嫌悪が残った。仕事中に冗談めかして何度か言われた台詞と同じ台詞なのに背筋があわ立つ。
 「ちゅ…さ」
 自分の口から出た声まで自分のものではないようだ。
 「起きたか?」
 ロイ以外のものを見慣れない。自分の部屋だとばかり思っていたそこは見知らぬ場所だった。
 「ああ、私の家だよ。君なんとなく強いイメージがあったが、意外に弱かったんだな」
 ロイはリザの考えを読んだように答えたが、リザにはロイが何を言っているのかわからなかった。鎖骨に降ってくる唇を受けてされるがままにリザは再び目を閉じた。
 「いいのかい? リザ」
 その行為自体は嫌ではない。構わない。くすりとロイが笑う声が聞こえる。白いジャケットが剥ぎ取られ、いつかと同じように黒いインナーのファスナーに手がかかる。
 あ。
 それは、いけない。
 リザは緩やかにロイの手から逃れた。
 「どうしたの?」
 スカートに潜り込んでまさぐる手には抵抗を示さないのに、リザはロイの手が背に伸ばされると嫌がった。
 「上だけ着たままでも悪くはないけどね、今日くらいは全部見せてよ、『ホークアイ少尉』」
 わざと階級名を呼ぶロイの声がいやらしい。本気で脱がそうとするロイに、リザも本気で抗った。
 「い…や…!」
 ロイが舌打ちして、ベッドとリザの間に潜り込ませた手で裾を握り締めると、金具はあがったままなのにジッと音がしてファスナーが開いた。
 「大人しく…―――」
 「嫌!」
 リザの渾身の力で突き飛ばされて、ロイはやっとリザに触れるのをやめた。同時にリザの頭にかかっていた靄が最悪のタイミングで晴れていく。
 「嫌、か…」
 「…申し訳ありません、マスタング…中佐」
 自分は何度こんなことを繰り返せば気が済むのだろうと、自身を抱きしめるようにして座っているリザを見ながらロイは思った。再びリザが目の前からいなくならない限り、繰り返すのだろう。再会が神の悪戯ならば、それはリザの味方ではないに違いない。
 「…悪かった」
 「いえ…」
 ジャケットを着なおしながらリザは意外なことを言った。
 「お相手をするのは構いません…性欲の処理に使うのに私でよければ…―――」
 「何を…!」
 リザは自分をそんなに粗末に扱うべきじゃない。そんな考えでいては、いつかきっとロイ以外の男にも同じことを言う。彼女を騙して連れ込んでおいて、身勝手なことを思った。
 「ただし、服は脱がせないで欲しいのです…貴方の目に晒せるようなものでは…」
 「何を言ってるんだ…君は、私がその程度の理由で君をここに連れて来たとでも思っているのか…?」
 語調は決して荒いものではなかったが、怒気が言葉に表れたせいか俯いたままのリザがびくりと震えた。これだけ美しく生まれついておきながら神に愛されていないなんて不幸な女だ。
 「君がそう言うのなら、私は何もしない」
 神の代わりに愛した男が私のような人間だったことも、リザを不幸にした。
 「中佐…」
 きっと今ならば、今見れば、彼女を手放せる。
 「リザ、背中を見せてくれないか?」
 その一転の曇りもないまっさらな白い背を目に焼き付けて、リザを送り出そう。
 「…あ…、だめ…です」
 「頼む。君のためだ」
 「駄目です…」
 リザはゆるゆると首を振った。
 それだけは、絶対にロイに見せるわけにはいかない。リザが己に課した最大の禁忌であった。
 「何故? 綺麗に治ったのだろう? 手術がうまくいかなかったのか…?」
 「え…ええ…」
 「私はそれがどんな状態であっても醜いとは思わないよ…何もしないと誓うから、見せてくれ」
 執拗に食い下がるロイに気圧されながらも、リザは頑として承諾しなかった。
 「…ホークアイ少尉、もしここで君が背中を見せてくれるならば、私は君と決別して二度と君には手を出さない…君の前に現れないと誓おう。だがもし見せてくれないのならば…」
 ロイの指がぐっとリザの顎を掴んで上向かせた。
 「この先も身体だけの関係が続くぞ」
 ロイの間近で、リザの顔が悲しそうに顰められた。
 ―――選択の余地などないではないか。
 ロイも、リザもそれぞれ逆の選択肢を思い浮かべてそう思った。
 ふっくらとした桃色の唇が薄く唾液の糸を引きながら開かれる。
 「それで構いません」
 「な…に…?」
 驚愕するロイを悲しく見つめる。
 彼は私を再び手放したいのだろうか。血を吐くような思いでロイが必要とする力を手に入れても、また、ロイは自分を捨てようとした。でも今は自分が彼の右腕として必要不可欠である自信があった。あの時よりもずっと正当な理由だが、結局やっていることは違わない。
 もう一つ、ロイが自分を手放すという条件を差し引いても、リザには背中を見せられない理由があった。
 もう二度とロイの罪悪感を利用しないと誓った上で、リザは背中の錬成陣の大部分を残している。身体に刻まれたロイとリザの密かな繋がりはリザの心の中だけに秘めて、ただの自己満足だけれど、繋がっているという安堵が齎す一方的な幸福。ロイに責任を負わせたくはない。だからそれはロイには決して見せてはならない。リザがロイの一部下であるために絶対に守り通さねばならない秘密だった。
 ぎり、と音がしそうなほどロイがリザの手首を強く握り、憎しみさえこもった目でみつめた。リザの心を蔑ろにしたまま身体だけを求め続けることの痛みがロイを苛む。しかし、ロイが強く握り締めたもう片方の手に血が滲んでいる事に気付いたリザは、気色ばんで優しくその手を開かせた。こんな時でさえ彼女はロイの心配しかしていなかったのだ。
 「ねえ、リザ…」
 ロイはリザの項を手のひらに載せて、口づけた。ロイの手が目を閉じて大人しく受けるリザの項を下って白いジャケットの首に当てられる。血の擦り付けられた白いジャケットに、その下のインナーは無残に破かれている。これでは外にも出れないなと他人事のように思い、ロイはジャケットの襟ぐりを握った。
 「君は」
 強く、抱きしめて、掴んだジャケットを引き摺り下ろした。
 「…っ…あ!」
 離れようとして暴れるリザを腕の中に強く閉じ込めて、上から破れた服越しにそれを見止めた。
 「どうして?」
 決して背中を見せようとしないリザを不思議に思った時から、わずかな期待は膨らんでいた。
 饒舌すぎるほどリザの思いを語っているそれを目にして、ロイは言いようのない高揚感に捕らわれる。
 「ごめん」
 そう言われたくなくて、見せないようにしていたのに、リザの決意はすべて砕かれた。
 「同情…なんて…しないでください…」
 訥々と、リザの口から言葉が零れ出る。
 「貴方は…私のことなんて…気にせず…」
 「私が君に同情して君の事を気にしたことなんてあったか?」
 「え…」
 リザを抱きしめる腕に再び力がこめられる。
 「私は私の好きなようにしかしないよ、だから君が気に病む必要はない」
 両肩に手を当てて離れると、リザはぱちぱちと瞬きをして、微笑むロイを見ていた。
 「自分勝手ですまないね」
 「い…え」
 「だから君がどんなに私のことを好きでも平気。束縛したいなら好きなだけすればいいよ」
 「中佐…」
 何もかも見透かされているようで、リザは唇を噛んだ。
 やはりこの人は優しすぎる。
 「だから今私はやりたいことをする!」
 「ふ…ぁっ?」
 突然身体を反転させられて、そのまま倒され、リザはおかしな声をあげてしまった。
 「中佐っ?」
 うつ伏せのまま振り返ると、ロイは満足そうな顔をしてそれを指で辿りながら見ていた。
 「ふん、この程度じゃまだ関係者には到底見せられんな」
 「あの…それなら」
 このままでいいと言ってロイはサラマンダーを舐めた。濡れたサラマンダーは生きているかのようにてらてらと光る。

 こんなものがある程度で束縛と言うのならば、自分が常日頃裏から手を回して彼女を遠ざけないようにしているのは何と呼べばいいのだろう。入隊したときから、ずっとリザを目の見える場所に置いていた。彼女に危険が及べば他の何を犠牲にしてでも駆けつける。本当に縛りつけようとしていたのはロイだということを、彼女は気付いていないのだ。
 自分への片思いに悩む彼女は美しい。
 リザを裸に剥きあげながら、ロイはそんなことを思って、余りある多幸感に人知れず笑った。



-curtain fall-