いつもならば出勤時間ギリギリまで惰眠を貪るロイは、
起床時間よりも一時間も早く目が覚めてしまった。
今日に限って寝起きの良い自分自身を、ロイは心底呪っていた。


・・・何故あそこで目が覚めてしまうのか。





紅茶、ゆらめく








やかんに水道水を勢いよく注ぎながら、ロイは大きく溜息をついた。

今朝は、本当に、本当に良い夢を見ていたからだ。
ロイが今朝に見た甘い幻。



彼女が、夢に出てきた。



彼女は夢の中で魅惑的な眼差しでロイを見つめていた。
その甘い香りのするハニーブロンドを肩まで下ろして、
ロイのすぐ目の前に切なそうに佇んでいた。
彼女の瞳の中にはロイ自身が映っていて、
ロイは自分でもびっくりするぐらいに優しい表情で微笑んでいた。



彼女の瞳の中の、自分。

こんなやわらかい表情を私は自分でつくったことがない。ロイはそう感じていた。
けれども、確かにこれは・・・・・私の笑顔だ。紛れもなく。



ロイは彼女の顎を右手で優しく引き寄せて、その瞳を間近から覗いた。
彼女の、その赤みがかった深い茶色の瞳が一瞬恥じらいを見せて揺らいだような気が、
ロイにはした。
吸い込まれるようなその色に釘付けになって。
ロイはそのまま彼女に口付けようと────して目が覚めた。



寸前で目が覚めるなんて。それはホントにあんまりだろう。





やかんを火にかける。
蓋の隙間からしゅんしゅんと白い湯気が上がってきて、ロイは目を細めた。
夢の中の彼女を忘れてしまわないように、頭の中でもう一度反芻した。
柔らかな髪の毛。白い磁器のような肌。熱っぽく潤んだあの瞳の色を。
こんなことは現実にはありえない。現実の彼女はいつだって愛しくもつれない女。
だからこそ、ロイには悔やまれて仕方がなかった。
本当に、本当に、何故あそこで目覚める必要があったのか。
・・・もう一度寝直したら続きを見ることが出来るだろうか。
もうすっかり目は冴えてしまっていたので、それは既に望めないことだったのだが。



不意にぼこぼことやかんから出る泡の音に気付き、ロイは慌てて火を消した。
完全に沸騰させては駄目だ。葉を蒸らすのに適切ではない。
片手で棚の上から紅茶の缶を手に取る。アッサムのフラワリー・オレンジ・ペコ。





あるときロイは仕事中に、軍支給の茶に対してこんな不味い茶では仕事にならんと愚痴をこぼしことがあった。 それはただ単にロイ自身の仕事の進み具合が悪いことに対しての咄嗟の言い訳だったのだが。

翌日彼女がこの紅茶を司令部に持ってきて、アフタヌーンに固焼きのクッキーと一緒に差し入れてくれたのだ。 素直に美味しいと言ったら、これあげますから真面目に仕事してくださいと言って同じものをくれた。

・・・なんとなく彼女に軽くあしらわれたような気分になったが、ロイはそれでも良かった。
彼女から書類以外のものを貰える時なんて、滅多になかったのだから。





ティーポットとティーカップに湯を注ぐ。器を温める為だ。
あまり料理をしない (食事は女性と外でするものだとロイは考えていた) ロイの家の台所に白いティーセットだけがいつも綺麗に整頓されているのは、かなり異様な光景だった。
つまりは、ロイはほぼ毎日紅茶を淹れているということに違いなかった。
この頃は何故か頻繁に紅茶が飲みたくなって仕方がないので、
ティーセットを使う頻度は恐ろしく高い。

好みが変わってしまったのだろうか。昔はインスタントコーヒーを好んでよく飲んでいたのだが。
自分の好みの変化に疑問を抱きながら、ロイは暖めたカップをテーブルに置いた。


とにかく、紅茶なしでは元気が出ない。
今朝は残念なことに早く起きてしまったのだからゆっくり飲もう。
やるせない朝を迎えた今日なんかはそれが一番の特効薬だ。



ティースプーンでポットに茶葉を一杯と半分。
高めの位置から湯を注ぐ。勢いよく注がれた湯の中で茶葉が踊る。
砂時計をひっくり返して茶葉がうまく蒸れるのをじっと待つ。
ロイは基本的に待つことが嫌いだったが、このときだけは別に嫌な気はしなかった。
たった4分待つだけで美味い茶が出来るのなら悪くない。そうロイは考えていた。





そういえばアッサムのフラワリー・オレンジ・ペコなら4分待てばいいんですよ、
と教えてくれたのは彼女だった。
長年一緒にいる彼女が実は大の紅茶好きだということをロイは知っていた。
紅茶の蒸らし時間は茶葉の種類や銘柄、グレーディングによっていちいち違う。
それを全部熟知していて美味しい紅茶が淹れられるのは軍では彼女ぐらいだった。
いままでの軍の不味い茶も、彼女が淹れていたからこそ飲めるものだった。


ああ、そうだ。例の不味い茶だって彼女が淹れていたんだ。
あの時、仕事が捗らないのを紅茶のせいにしたのは、
とんでもない失言だったのではないだろうか。
我ながら本当に情けない。ロイは頭を抱えて溜息をついた。


しかし今更気付いたところでどうにもならない。
今日からは彼女の淹れた紅茶にきちんと感謝をしなければ。一杯ごとにお礼もしよう。
うん。それがいい。花がいいだろうか。それとも口紅?
いやいやここはいっそのこと私のセンスが光る服などがいいだろうか。
ロイは、にやけた顔を隠しもせずにいる。





小さなガラスの中で最後の砂が落ちた。4分経った。
ティーストレーナー (ちなみにブレダは茶漉しなどと古臭い名前でその器具を呼んでいた。その呼び方は全くもって上品さに欠けるといつもロイは思っている) を使って漉しながらカップに注ぐ。
ロイが紅茶のためだけに取り寄せた白いカップ。
直径が大きく薄く浅いカップは、紅茶の繊細な風味を損なわせることがないし、香りが広がりやすい。なにより光で水色が一際美しく見えるのが良かった。


やや濃い目で深みをもった紅色が白い器の中で揺れた。
よし。綺麗な深い色だ。
後で飲む2杯目のためにポットを軽く回して濃さを一定にしておく。
これで美味しい紅茶を飲む準備が出来た。ロイはニンマリと満足そうに笑った。



普通、朝に飲む紅茶はミルクティーなどの口当たりの優しいものがポピュラーだが、
ロイはこの紅茶に限っては朝だろうがなんだろうがストレートで飲んでいた。

アッサムはこの色がいい。
せっかくの透き通った紅がミルクのせいで濁るのはいただけない。
かわりに砂糖を3杯入れてロイはそれを口にした。
優雅な、甘味のある上品な香りが口の中にふわりと広がる。
豊潤でコクのある円やかな味がのどを通っていく。しっかりとしたこの味が、好きだ。
朝の冷えた身体が内側からじわじわと温まってくる。ロイはほっと息をついた。


ああ、おいしい。大好きだ。

自然と顔が緩んで、二杯目をカップに注ぐ。


そして。

ふと。
なみなみと注がれたカップの中身を見た。


そこにあるのは深い濃い目の赤みがかった、茶色。
揺らめく魅惑的な水面には、やわらかに微笑んだロイの顔が映っていて。




既視感。




『・・・・・・・・・あれ・・・・・・・・・・・?』





何故、今まで気が付かなかったのだろうか。


この紅茶の色が彼女の瞳の色に似すぎていることに。






カシャン。



慌ててカップをソーサーに置いたので大きな音がしてしまったが、
ロイは今それどころではない。
ロイは、いま、ちょっとすごく慌てていた。



じゃあつまりなにかロイ・マスタング。
あんなに毎日毎日毎日毎日手間を惜しんで紅茶を淹れていたのは。
あれを飲まないと元気になった気がしなかったのは。

気が滅入ったときばかりあれを欲していたのは。



ロイはカップを手にとって、もう一度その中身を眺めた。
カップの中に溢れる、紅い、魅惑的な香りのするもの。
そう、これは彼女のあの、強い瞳の色だ。
やがてその水面に自分の情けない顔が映っていることに気が付いて、
ロイはそれを一気に飲み干した。
ポットの中に未だ残る三杯目には手をつけずに席を立ち、身支度をして、家の鍵を手に持つ。
まだ出勤時間まで大分あるが、勤勉な彼女なら既に司令部に来ているに違いない。



夢の中でも、ティーカップの中身でもなくて。
本物に自分を映さなくては意味がないことを、ロイは既に知っていた。
今まで無意識のうちに抑えていたものにとうとう気が付いてしまったのだから。
彼女に会わなくてはいけない。今すぐ。


ついでに今朝の夢の続きでも実行してしまえれば、いい。











 (終)




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