イシュヴァール殲滅戦、ふたりの出逢いの捏造話です。
一部性的、暴力的、グロテスクな表現が含まれていますので苦手な方はご遠慮ください。














遠い昔、赤い砂の流れるあの土地で。
男は一羽の鷹を見つけたのだった。





ひとりの男と一羽の鷹の話








どよりと空を覆う大気中の水蒸気は、まるで大量の血を吸ったように重く暗い。 厚く圧し掛かるような雲という名の血液は、降りそうで降り出さない。 ただ空気を威圧するかのように澱む。いっそのこと水滴となって降ってしまえば 大地に流れて見えなくなるのかもしれないのに。早く降ってしまえ。 蒼く濁る意識の中で漠然とそう思った。





鷹はかなりの深い傷を負っていた。



その身体は傷みきって羽毛の下からどくどくと赤い血を流し、既に空を飛べそうにはなかったが  それでも鷹はばたばたと羽を大きく動かしてもがき、その獰猛な眼は男を強く睨みつける。

何故ここに鷹が?
自分に向けられる野生の鋭い視線に一瞬目を奪われた男は、ぼんやりとそう思う。 戦場にひと以外の生物なんて、存在しないと思っていたのに。何故ここに?

鷹は今にも死にそうで、肉をも引きちぎれそうな尖った嘴を大きく開け、 身体全体で荒く息をしていた。眼は――――――未だにこちらを深く睨みつけていた。 今にも死にそうなのに。否、死にそうだったからこそ、その死に際を覗かれるのが嫌だったのか。

鷹のその必死さがなんとも滑稽で、男は言いようのない悲しみに襲われた。 何故悲しくなったのかは今でもよくわからない。何を見ても動じない。 そう心に決めたはずだったのに何故。たかがみすぼらしい鷹一羽のせいで  何故こんな気持ちにさせられたのだろうか。無性に腹立たしくなった。ただそれだけだった。 男はその鷹を助けることを、決めた。本当は彼はそこで死に行く脆弱な命を看取るつもりでいたのだった。 助けるほうが酷だと思っていた。ここで生きながらえてもこの無残な戦場では、 弱い命ひとつ生きていけるはずも無いと思っていたからだ。



男は鷹を腕に抱いてテントに戻る。―――くそ、血液で湿った布が脚に張り付いて気持ちが悪い。 鷹はもう彼の手から逃げる気力も無いらしく、その嘴から弱々しく空気を吸っては吐くだけで 大人しくしていたが 眼だけは先程と変わりなく、 それどころか前よりも憎々しげにこちらを睨んでいる。 その眼は青白い体に似合わず異常なほどに強い。 人間の薄暗い腹の底を見透かそうとするようなその眼が、男にはとても居心地の悪い、 酷く扱いにくいものに思えて仕方がなかった。

埃臭い彼のテントの中で、鷹に毎日少しずつ水と食料を与える。 火薬で黒くまみれた薬品箱の中を数度あさる。褐色に膿んだガーゼを剥がし、 羽の下の醜い裂け目が赤く広がっていないか確認し、貴重な薬も一日一回塗ってやる。 左官にしか支給されない若干の甘味さえも彼は鷹に与えた。 男は、鷹が死にいくところを許さなかった。



そしてある日、古ぼけた軍支給のテントの中で、鷹が彼に初めて口を訊いた。
(そこで男はこの鷹がしゃべれるということに初めて気付いた)

「何故私を助けたのですか」

最初に吐く台詞にしては、あんまりといえばあんまりだと鈍く思う。その言葉がひどく苦々しく、
ふてぶてしく聞こえたので彼は苛立った。



「・・・・・気まぐれだ。別に君ひとり生きていようがいまいが私の命は揺るがせられない」

お前は、ちっぽけなみすぼらしいただの鷹に過ぎない。 だからこそお前を生かしたことに理由など無い。何ひとつ。



そうして鷹は黙って目を瞑る。その強い光を放つ眼は白く薄い瞼の下、何処か 暗闇を睨みつけているように見えた。男は息を殺し、鷹を見つめた。 それでもその眼はこちらに向けられることは無い。 鷹が自分を睨んでいないことに男はどこかで安堵し、また苛付いた。 彼は鷹を置いてテントを出た。鷹のその白すぎる瞼、寝かされた蒼い身体をいまは見たくない。 鷹と同じ場所にいることがやるせなくて口惜しくて仕方が無い。 男はその日、彼女のいるテントに戻らなかった。しかし心はざわついたままで落ち着かない。 彼は施すすべがない痛みに身を持て余していた。

翌朝 男は自分のテントの中に鷹がいないということに初めて気が付いた。 冷え切った寝床からは少しの彼女のぬくもりも感じることができない。 あの鷹はもう自分で空を飛べるまでに回復していたのか。 いや、それよりも。鷹が 「いない」 ということに彼は驚いた。



鷹がいない。

それは、なにか、彼の意識を。

言いようの無い 深い水の中に沈めたような気がしたのだった。
















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