遠い昔、赤い砂の流れるあの土地で。
女は黒い獣に生かされた。






ひとりの女と黒い獣の話








正直な話、空は彼女にとってひどく遠いものだった。 肌に感じるのは冷たい砂ばかりである。無機質なそれはひゅうひゅうと音をたてる 女の口の下で少しずつ体温を奪い、彼女をひっそりといのちないものに還えていく。 流れ出る血を深く吸い、じっとりと広がりいく砕屑物は女の瞳に映らない。 そして、翳んだ眼でかろうじて見えるのは こちらに向かう誰かの足元。





その獣は全身に深紅の焔を纏っていた。



じっとこちらを見据える冷たい眼は闇夜よりも深く、ひどく澱んでいる。 その体はかすり傷こそありはするが、この戦場で生きているにしては異常な程に無傷であった。 そう、それは今までに見たことのない異常な生き物。この無残な場所で生き存えることができる 生き物は、最早ひとではない。だから、これは獣。

せめてあたたかな血の通った人間の傍で死にたくて、 彼女は動かなくなった自分の身体を無理矢理動かそうともがいた。 こんな獣に殺されて命を終わらす気はなかった。女は獣を精一杯睨み、 こっちへ寄るなと牽制する。獣の虚ろ気な重い瞳。彼女を見ているようで、 しかし実際には何も映してはいない。そんな黒い眼を見ていると、既に自分は獣にとって  命のないただの肉片のように見えているのではないかと思えてきて仕方がなくなった。 そんな眼で私を見るのならば、せめて最期の力でその眼を潰してしまおう。 女は使い物にならなくなった四肢にもう一度力を込め、立ち上がろうとした。

そして、信じられないものを彼女は見てしまった。
一瞬。一瞬だけ、いまにも泣き出しそうな人間の顔がそこにはあった。 それはいつか、誰もがどこかで見かけることができた、懐かしい感情。 幼い子供が大切なものを奪われて、今にも泣き出してしまいそうな。大切なものを大切だと思える、 尊い感情を湛えたその顔は。遠い昔、戦場でいくつも消えていった仲間の顔を、女は思い出した。

女は大きく目を見開いて黒い獣の顔を見つめた。 いま、ここに。人間がいなかっただろうか?



獣は女の体を腕に抱え、彼女の顔を睨みつけた。それは強くて暗い、 澱んだ獣の瞳に戻ってしまっていた。女は獣の眼を見続けた。 もう一度あの泣きそうな顔をしないだろうかと。獣の瞳の中に必死になって ありもしないひとの眼を探す。彼女は人間がひどく恋しかったのかもしれなかった。 あなたはだれ。女は無言で獣に訴え続けた。 あなたがひとであったならわたしは安心してここで死ねるのに。



結局獣は女を生かした。水も食料も薬も与えられた。 戦場では味わうことの許されない、若干の甘味さえも獣は彼女に与えた。 初めの頃、女はこの獣に殺されるか もしくはその鋭い牙の餌食となって喰い千切られることを 信じて疑わなかった。しかし、獣は彼女に対してまるで人間を装うかのように甲斐甲斐しく 世話をし続けた。薬を塗るとき以外は彼女に触れず、こちらを見ようともしなかった。 けれどもこの獣から少しも人間らしさが感じられないのも確かである。 消毒用のアルコールの匂いを嗅ぎながら首を少し動かし、黒い獣の方を見る。 薬品箱を片付けるその仕草にも人間らしい隙は見られない。人間らしい会話もない。 矢張りあの時の どこか懐かしさを覚えるひとのかおは錯覚だったのか。 女はひどく惨めな気持ちになって獣に訊いた。



「何故私を助けたのですか。」

「・・・・・気まぐれだ。別に君ひとり生きていようがいまいが私の命は揺るがせられない。」

おまえは、ちっぽけなみすぼらしいただの人間に過ぎない。 だからこそおまえを生かしたことに理由など無い。その言葉はそのようなことを含んでいた。



彼女は軽く失望した。あの時の黒い獣の泣きそうな顔。 あれは朦朧とした意識の中で自分が創りだした幻想に過ぎなかったのだ。 獣が寝床を出てどこかへ行ってしまった後、女はゆっくりと重い身体を引きずり、外へ出た。 どこかへ行こう。獣ではない、ひとのいるどこかへ。闇の中 ぱちぱちと気吹く火の光から遠ざかり、 ゆらゆらと動く瓦礫の影の下を通り。女は獣の下から逃げ出したのだった。

しかし、結局彼女は人間を見つけだすことが出来なかった。 やっと探し出した遠くの味方の野営地にさえ、既にひとなど生きていなかった。とうとう彼女は 気付いてしまった。 この荒んだ戦場では、弱くてやさしい人間は到底生き存えることなど出来ないことを。 今ここにいるのは獣だけ。死にそうな人間を平気で踏みつけて生き急ぐ獣だけだ。 どこを探してもあたたかな血を流す人間など居はしなかったのだ。 女は何匹かの弱々しい獣に喰い殺されそうになって、最初に出会った黒い獣のことを思い出した。



そしてまた、あの獣の泣きそうな顔。

その一瞬だけが彼女の頭の中にちらついたのだった。















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