鷹がふらりと戻ってきたのは、鷹が男の下を去ってから数週間が経った頃だった。






黒い獣と一羽の鷹の話










正式にここに配属させて貰うように頼んできました。

開口一番ポツリと鷹は言った。 たったそれだけの説明。
鷹は何も言わずに男についてくる。



鷹は知らなかった。何を失っても毅然としていた強い男が、 鷹を失ったことに一瞬怯えた事を 鷹は知らなかった。鷹が彼の元を離れた後、 男がどんなに鷹を探したのかを知らない。鷹が彼の意識の何かを乱していたことを、 鷹は知るはずがなかったのだ。

数週間前、ほんの一時だけ共に過ごした鷹の顔を、男はしげしげと見つめた。 男は、怒りたかったのかもしれない。・・・・・嬉しかったのかもしれなかった。 鷹が帰って来た今、人間らしい全ての感情をひっくり返して綯い交ぜにしたような、 強すぎてよくわからない感情に彼は支配されていた。 鷹が自分の傍にいる。 その事実に、彼は苦く笑った。

実際、男には何故  たかが鳥一羽に自分が固執しているのかを理解しかねていた。 いや、本当は理解していながらその感情の名を持て余していた。きっと恋ではない。 もっと単純なものだ。しかし何故。 何故俺はあの時一羽の鷹を見過ごせなかったのか。 その純粋な問いは考え出す端からいつでも黒い意識に遮断される。問いの答えに、 黒い意識のその名に気付いていても尚。
それでも、彼は嬉しかったのだ。







女は黒い獣をじっとみつめていた。

彼女はこの強い獣が自分を見て苦く笑ったことに驚きを隠せない。こんなにも、 こんなにもつよく、この獣はひとの顔をすることができたのか。 やはりこの獣も人と同じようにあたたかい血を流しているのだろうか。 散々迷ったがここへ戻って来てよかったのかもしれないと思う。

本当のところ、女はいつ死んでも構わないのだった。 彼女はもう大分前から疲れているのだった。全てに絶望しているのだった。 空を見上げても屍を眺めてももう何の感慨も浮かばない。いえ、本当はいつでも叫んでいる。 いつでも死にたいと思っている。そしていつでも死にたくないとも。
ただ、子供が駄々でもこねるときのように、もう一度、この身体が死に絶える前に 何度でも  この黒い獣の顔がひとの顔に変わる瞬間を見たい、と彼女は思った。 女はそのために、そのためだけにこの獣の下へ戻ってきたのだった。















黒い空の下、鷹は黙って男の造った屍の上を踏んで歩いていく。

怪我が回復してしまいさえすれば、鷹は完璧な程に有能な鷹だった。 敵を射殺す猛禽類独特の強い眼。その鋭い眼が時々彼を貫いても、 男はさして辛くはなることはなかった。最早鷹は自分と同じものを共有してしまっている。 地べたの赤い砂にまみれて、その羽には幾千という黒い罪悪が圧し掛かっている。 鷹はもう あの純粋すぎる青い空に飛び立つことはできない。

一度鷹が彼の目の前から消え、またここに舞い戻ってきたあの日から 男は片時も鷹を傍から離さなかった。彼の眼を盗んでその翼が空へ向かうことがないように、 男は鷹をしっかりと見張っていたのだった。それは些細な独占欲からか。 それとも孤独を恐れる弱さから滲み出たものだったのだろうか。 よくわからない。(実はよくわかっている) 彼はあの喪失感を二度と味わいたくなかっただけなのかもしれなかった。 何故 あれほどまでに喪失感を覚えたのかも、彼には本当はよくわからない。 (本当はよく理解している) 彼は気付いていたのだった。男がとっくの昔に捨ててしまった沢山のものを、この鷹が未だに手に持って離さないことを。 それは自分では既に手にすることが出来ないものだからこそ。 彼は、頑なに鷹を慈しんだ。手の中に閉じ込めて離さなかった。時折鷹が思い出したかのように空を見つめる姿を見ては、 男は影でほくそえんだ。おまえはもう飛べないのだと。 その羽は既に黒く染まってしまっている。 もう、 俺と共に屍の上を歩くしかないのだと。鷹が少し哀れにも思えたが、 それでも彼は紛れも無く喜んでいた。



男の浅はかな想いを知ってか知らずか。

女は、なお獣の造った屍の上を歩き続けていた。空を見つめて。















 モドル   メニュー   ススム