ごうと音が鳴った。叫び声は熱された芥と共にどろどろと地を這っていく。 爆煙の中で焔の上で黒い雲の下で、何百何千という自己がきえていくのを彼と彼女は見つめた。ひとが何処で死んだのかさえ、 誰も知りはしなかった。黒い壁のように厚く広がる空は闇の中でも赤くひかる。 あらゆる音は死にいく者達のために圧迫され、耳に届く前に掻き消されていく。 そんな夜は誰も好んで暗幕の外に出たりはしない。身体を小さく折り曲げ、じっと朝を待つだけなのだ。

そして彼も矢張り、総てを終えた後、薄暗い幕の下で小さく深く息を吐いた。






ひとりの男とひとりの女の話








男はいままでにないほどに疲憊していた。

灰色に滲んだ硝煙の匂いがテントの中に充満している。息苦しさを覚える。 自分の体から溢れ出てくる、自分ではない体液の匂いに、彼は酷く嫌気がさしていた。 頭がなにかあかくて重たいもので満たされていくひどい感覚。ひとを見ることに彼は疲れを覚えていた。


「大丈夫ですか」 女は獣の異変に気付き、そう尋ねた。
すると不意に彼女の身体に黒くて鋭い爪が喰い込んで、女は大きく眼を見開いた。 今までこの獣は 彼女に一度も意味なく触れようとしたことはなかったのに。  じっと獣の黒い眼を見据える。  動けなかった。恐怖でも嫌悪でもなかった。もちろん愛情でもない。 ただただ、大きな眼をもっと大きく見開いて獣の眼を見つめた。



男はその時、ほんの戯れに その身体に手を伸ばした。
この鷹とは互いに背中を守り合いながら意味のない殺戮を繰り返したことがある。 その身体を背負ったり逆に支えられたりしたこともざらにある。 身体の一部がぶつかり合うことは幾度もあった。 しかし、彼は今までこの鷹に一度も意味なく触れようとしたことはなかった。 何故そこまで慎重に、大切に 触れることを避けていたのかは 今となっては(今だけは)頭に靄がかかって思い出せない。

こんな鷹一羽に俺は何を躊躇していた? 
彼はいつもの意味のない(そして決して答えなどない)自問自答を繰り返そうとして―――やめた。 そんなこと、もうどうだっていいんじゃないのか。今となってはどうでもいいことだ。

男はじっとしている鷹をいいことに鷹の綺麗に生え揃った羽を撫ぜる。 最初に出会った時は、みすぼらしくぼろぼろだったその身体。いまはもう、 野生の美しさそのままの綺麗な形、色に戻っている。 艶のある大きな風切羽を何度も何度も指でなぞり、奥にある綿羽の感触を味わう。 鷹はまだじっとしていた。しかし、微かにその身体が震えていることに男はきちんと気付いていた。 気付いていながら、彼は鷹の羽を触り続けた。

男は深く深く息を吐き出した。

ああ、本当はずっとその艶やかな羽を撫ぜてみたかった。
戦場で出会ったその日から。
そのやわらかな羽のなかに、この血に濡れた赤い爪を、
深く奥底まで入れてみたかった。

にやりと、下卑た笑いを見せる。鷹は息を呑む。初めて強く、睨む。
いいじゃないか。 おまえを生かしたのは俺だ。おまえのために水も食料も薬も分けてやったんだ。
さわりたかったんだ。さわるぐらい、いいだろう。 さわる、だけなら。





本当は、
・・・本当はこの鷹は、どんなに赤い砂にまみれても 空に帰ることができる。男はそれを知っていた。 鷹はいつまでも泥にまみれなかった。人に堕ちたりしなかった。 鷹は充分血を滴らせて男の後をついてきたけれど、どこかが清いままだった。 彼と同じものを共有しながら、鷹は鷹のままだった。男のものになりはしなかった。 だから本当は、この戦いの日々が終わったら、穏やかな風がこの地に吹くようになったなら、 男は、鷹を 空に帰すつもりでいたのだ。
けれども男は思い出す。黒い雲。誰かの声。
硝煙の涙。あかい、あかい―――――あかい獣。


そのとき、女は獣の顔が悲しみに歪むのを見た。
今にも泣き出しそうなひとの顔がそこにはあった。
女は何か声を発しようとして、


澱んだテントの中で、何かが倒れるような、 崩れるような酷い不協和音が響いた。鈍い音をたてて良心が壊れる。 男は優しく撫ぜていたその手を止め、鷹の羽を強く掴み、残酷に引き抜いた。 そして綺麗な風切羽を力任せに毟り、彼は彼女の、そのあたたかな綿羽に噛み付く。 男は泣いた。戦場に降り立って初めて泣いた。泣きながら鷹の羽を毟り取るのをやめなかった。 掻き毟って奥の肉を口に含む。強引に掻き抱き、そして欲にまみれた黒い己を、 そのうっとりするような皇かな躯に擦り付ける。 この鷹が、美しい鷹が、永遠にその羽を失くして、いつまでも地べたを這いずりまわればいいと思う。 その眼が空ではなく敵ではなく男だけを映せばいいと思う。汚れきった男よりももっと汚く、 哀れになればいいと思う。男は泣きながら彼女を抱きしめた。 女は獣を見つめる。羽を毟られ、その牙に租借され、 自分の身体が少しずつ食べられ消えてなくなる感覚はとても虚しく、きつい。 しかしなによりも辛いことは、この男の顔が絶望に歪んでしまっていることだった。 唐突にわかってしまった。このひとはばかだ。私はばかだ。獣が人間の顔をしているのではない。 このひとはいつだって人を捨てて獣になろうとしているだけなのだ。 ただそれだけのことだったのだ。でもそんなこと無理。 絶対に無理。彼は獣にはなりきれない。今も、きっとこれからも。 

女に覆い被さるその身体は泣きたくなるほどあたたかい。熱い体液が喉の上を伝っていく。 どくどくとひとの血の流れる音がする。悲しさと嬉しさと口惜しさにいま、 彼女は耐えなければならなかった。くるしいくるしいひどくいたい。 この痛みに身を捩じらせて声を嗄らせて啼いてしまいたい。それでも声は出さない。 身動きひとつしない。眉根を寄せて、苦痛に耐えて、目に涙を溜めながら、 それでも一筋も外に零さない。女は全ての羽を毟り取られるまで、ずっと男を見つめていた。 男も泣きながらずっと女を見つめていた。 ずっと、その眼を見つめていた。









翌朝 男は、女の 白く蒼く赤黒く腫れたその身体をじっと眺めた。



彼女の服はひどく破れ、羽を無くした体躯はどこもかしこも傷んでいた。ぼろぼろの彼女は
それでも綺麗な顔をしていて、出会ったときよりももっと強い眼をして、男の眼を見据えていた。

悔恨に顔を歪ませた男の顔は それでも
強く、ひとつの願いを紡ぎ出していた。



「・・・ついてこい。私は君を連れて行く」



その言葉に心底安心したのか、女は息をついた。
ぺっと軽く口内の血を吐き出してから、男に向かってゆっくりと誓約の言葉を刻んだ。
心からのことばだった。



「上を目指してください。私は、貴方を守ります」













男は振り返って思う。
男は何時だって前を向いていたが、あの時だけは独りで前を向けなかったのではなかったか。
稀に、本当に時々 みっともなく彼女に縋ったあの日を思い出す。
あの朝、女は男に向かって笑ってみせたのだった。
荒んだ戦場には似つかわしくないぐらい、彼女は綺麗に、優しく微笑んでみせた。
少しも後悔をしていないと言えば嘘になる。
翼を奪って退路を断って彼女をここまで連れてきたのは、紛れもない 男自身のエゴなのだから。
情けない。どうしようもない。馬鹿な男だ。
・・・それでも、 ありとあらゆる時の中で
彼女の笑顔が、男のあかい幾夜を塗りつぶした。
今でも鷹であった彼女は男の傍にいる。
男と同じものを見据え、歩いている。



そして女は振り返って思う。
女はあの時、やっと心から生きたいと願ったのではなかったか。
稀に、本当に時々、彼を大切に抱きしめたあの日を思い出す。
あの朝、男は女に向かって笑ってみせたのだった。
荒んだ戦場の中だからこそ、彼はつよく、優しく微笑んでみせた。
後悔などしていない。
彼を守ろうと決めたのは、紛れもない 女自身の意思なのだから。
彼の顔が見たい。彼の隣で、彼の願いを 彼女自身が見届けたかった。
だからこそ。 これからも、
彼の笑顔が、女のつめたい幾夜を塗りつぶす。
今でも獣であり、そして誰よりもひとである彼は女の傍にいる。
女と同じ血を流し、歩いている。




あの時。
あの時あなたに出会わなかったら。

私はきっとこんなにも強くなりたいとは思わなかっただろう。




そうしてふたりは歩き出す。流れ行く空の下で、地に足をつけて。









(終)





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  うららかな春の午後